ナースのストーリー

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看護師になれば、母に会える・・・。

看護師長 緩和ケア認定看護師 原口みゆき

画像 私が幼いころ、母親は結核を患い、長期にわたり入院していました。親戚の家にあずかってもらっていた私は、よく家を抜け出し窓越しに母親を見ていたそうです。窓の外から母親のそばに看護師さんがいるのをみて、「看護師になれば母親のそばにいれる。」とこども心に結びつけたのかもしれません。
  看護の道しか選択肢になかった私は35年前、中学を卒業後、准看護師の学校に進学し、准看護師として働き始めました。
その後、土庫病院で働き始めたばかりの19年前、私は母を癌で亡くしてしまいます。母にはずっと苦労をかけっぱなしでした。親孝行をさせてもらう間もなく逝ってしまいました。当時は痛みを緩和する薬もあまり使われていなくて、眠るようになくなったとはいえませんでした。私は、深い悲しみと痛みを感じ、何もできなかったと自分の無力さも痛感したのです。

母の死。もっと愛情を降り注げる自分を目指して

 悩んだ末、准看護師だった私は看護師になるためにもう一度勉強しようと決意しました。3年間看護学校に通って看護師に。それでも自分の思う看護に納得できず、3年かけて「大検」の資格を取得し、45歳のとき日本看護師協会の認定看護師(CN)を取得しました。
   認定を受けた特定の看護分野は、「緩和ケア(Palliative Care)」。母親の死に際して、自分の未熟さや知識・技術の乏しさからその苦しみに対して最高の看護ができなかった思いが、この分野をもっと勉強したいと思うきっかけになりました。
がん対策基本法がとなえられるものの、まだがん看護の知識や技術をどの施設でも均一に提供できるまでにいたっていないとも感じていました。そのように私を変えた一番のきっかけは、母の死という人生で一番大きな痛手を負って得た教訓でした。私にとって母がそうであったように、入院されておられる患者さんお一人おひとりは、誰かにとってかけがえのない、大切な方です。看護師として、そして人間として、私はそのことを片時も忘れません。

常に患者さん中心。信頼し合い指摘し合える組織へ

 現在、抗がん剤治療など、化学療法を受けられる患者さんが優先的に入ってくる内科病棟で勤務しています。師長になって3年半、大切にしてきたことは二つです。一つは、患者さんとご家族が適切な医療・ケアを提供されているかどうか。もう一つは、スタッフの環境への配慮です。
  前者については、すでにお話ししたように、誰かの大切な人である、そんな患者さんとご家族に対して、常に最高のケアを目指すということ。また、治癒を目指せればいいのですが、残念ながら医療を尽くしても望みがないと思われることもあります。そんなときは、事前に患者さん・ご家族とともに話し合いながら、何が最善となるのか、見い出していかねばなりません。
  後者については、31人のスタッフがいきいきと働ける状況をつくることが私の重要な使命と感じています。スタッフ全員が、自分の能力を存分に発揮できる環境を整えるということです。ときには、精神面や体調、家庭の事情等も含めて話し合います。

未来に向かって民医連の看護を継承していくこと

  私は看護師という「仕事」を、日々、自分も成長し、社会貢献できる機会と捉えています。
  土庫病院の理念は、無差別・平等の医療、安全・安心で信頼される医療の実践です。
  患者とご家族の立場から、何が必要なのかを考える視点が重要です。そのような視点に立てる看護師を育成すること、民医連の看護を継承していくことが今後の課題になります。
さらにもとめられることに応える知識・技術、専門的能力のために、スタッフ平等に研修に参加できるよう努めています。土庫病院は急性期・慢性期疾患、さらに超高齢化社会を迎え、多疾患を抱えながら終末期を迎える患者さんに対して地域の病院としての役割を担っています。民医連だからこそできる看護はここにあります。
 医療チームで、患者さんについて語り合う毎日はとても充実し、ともに育ち合い成長していると実感しています。これからも患者さんが中心であることを共通認識として、お互いに信頼し合い、評価・指摘しあえることができる医療チームを目指しています。

人の役に立ちたいという思いから

看護師 浅田恵理

画像 小さい頃から将来は人の役に立ちたいと思っていたことを覚えています。高校で今後の進路に悩んでいた時に、母親からすすめられたことが看護師になるきっかけになりました。さっそく、土庫病院の一日看護体験へ。実際の看護を見せていただいたとき、ほんの少しお手伝いさせていただいた患者さんに「ありがとう」とおっしゃっていただき、とても嬉しく思いました。
 しかし、看護専門学校に進んでからは、とにかく大変でした(笑)。覚えないといけないことが私にとっては多すぎたし、実習では叱られ続けて、ご飯ものどを通らなかった時期もありました。早くも1年生の夏にくじけそうになったのですが、そのときに相談に乗ってくださった先生が恩人です。話を聴いてくれながら、一緒に泣いてくださったのです。
   卒業式の前日にようやく合格した学校だったし、母親にもそれだけ迷惑をかけっぱなしだったことを思い出し、がんばってみようと思って踏みとどまることができました。その後もつらく苦しいときはありましたが、3年生になるころには同級生の団結力が強くなっていて、同じ悩みを共有し、励まし合って最後までがんばりました。

「あんた、うまくなったやん!」

 一日体験以来、奨学金や実習でお世話になっていた土庫病院に入職させていただきました。看護の現場に入り、1年目は、亡くなって行かれる方を目の前で見ることがとてもつらかったです。容体が悪くなって行くのに自分が何もできない感じがして、もどかしさややるせなさを感じ、ずいぶん落ち込んでいました。視野が狭かったのでしょうね。目の前の患者さんしか目に入ってなくて、急変されたときの対応などあたふたするばかり。周りのスタッフとの連携や家族さんへのフォローなど、まったくうまくできていなかったことを覚えています。
 また、技術的にも非常に未熟で、点滴の針を患者さんにうまく入れられない日々でした。何度も失敗して痛い思いをさせた患者さんが退院して1年後、また私が点滴をさせてもらったのですが、「あんた、うまくなったやん!」と言って笑ってくださいました。すごくうれしくて、元気になって退院していかれる患者さんやご家族と喜びを共有できることや、いろんな役割や立場の人たちやスタッフたちと一緒にがんばることが楽しくなっていきました。

相手の目線に立ち続けていきたい。

 昨年から主任をさせてもらっていますが、これまでとは数段重くなった責任を感じています。リーダーシップをとることが人一倍苦手で、指導したり注意したりすることがなかなかできない私です。特にスタッフ同士、スタッフと先生、患者さんとスタッフなどの関係を冷静に見て責任ある行動や言動をとることによって、主任として責任をしっかり果たせるようになりたいと思っています。
  今後は病院内部だけでなく、ほかの診療所や訪問看護の人たちとの連携もさらに深めて行きたいし、自分自身の看護のレベルアップも必要です。課題は多いですが、相手の目線に立つということを最も大切にして、患者さんやご家族の本心にしっかり耳を傾けながら、よりよい退院支援を目指し続けていきたいです。呼吸器をつけ、生死をさまよっていた人が回復されて退院の日が決まる…。なんといっても、私はそれが一番嬉しいのですから。
                  
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